Fate stay night【Heavens Feel】考察

 

 今年(2017)の10月14日に劇場アニメFate stay night Heavens Feel第一章が公開!ということで原作を再プレイした感想、考察です。

※この考察にはFate stay nightのみでの考察であり、Fate zeroまたFate ataraxia及び他外伝作品の設定は加味しておりません。(無意識に付け加えてるかもですが)

 

※ネタバレ全開なので未プレイ者はブラウザバック推奨

 

 

 

 

 

【Heavens Feel】

 Fate stay night(以下sn)という作品の最大の特徴はその世界設定にある。神話や歴史において英雄とされた人物を現代に召喚し、魔術師が戦争を繰り広げるという、あらすじだけで厨二病ウッキウキの作品。 

 

 大きく分けて3章に分かれており、fateunlimited blade works(以下uvw)では超人たちの群像劇。まさしく我々が求めていた熱血王道厨二バトルもの。しかし、最終章Heavens Feelではそんな王道展開に燃えるプレイヤーたちに冷水を浴びせるがごとく突きつける暗く、暗澹としたストーリー展開となっている。

 

 

【士郎の歪みとは】

 長らくsnにおけるテーマ、議題として扱われていた『主人公:衛宮士郎という人間の歪み』というものがある。

 

 この主人公に対する違和感のせいで感情移入が出来ないという方も多くいたのではないだろうか?

fateubwの士郎は自我としての望みがないロボットだった。ただ1つ、“正義の味方になる”という呪いのようなものを自分の願いだと信じ込んでいた。

 

 士郎はサブァイバーズギルトである。10年前の大災害でただ一人生き残ってしまった罪悪感。それが、衛宮士郎の人格形成に大きな影響を与えている。

 

 正義の味方になるためには明確な悪が必要不可欠になる。運命の夜、教会で綺礼に告げられた言葉で気づく。

 喜べ少年、君の願いはようやく叶う

 正義の味方になりたいと願うのは同時に明確な悪を求めていることになる。これが、歪んだ正義なのである。

 

 fateにおいてセイバーはその歪み故に救われ、凛はその歪みさえも受け入れる器の大きさを持っていた。反面、桜には正義の味方ではなく衛宮士郎個人が絶対的に必要だったのだ。

 

 両ヒロインには絶対的に優先することがあった。セイバーには王としての譲れない立場、凛には魔術師としての譲れない立場があったが桜は違う。桜には士郎以外あり得なかったのだ。士郎の理想を受け入れられる強さなんて持ってなかった。だから士郎は桜のためになるには全人生をかけて貫いてきた理想を捨て、桜を選ぶしかなかったのだ。

 

 どれほど士郎の歪みが強いものだったのかを表す的確な表現が考察サイトにあったので引用。

http://d.hatena.ne.jp/katuyama-peke/touch/20090930%23p1

士郎はピンボールの玉であって、運命の夜という台に打ち込まれる存在と考えてみてください。多くの玉はFateの周りに集まるでしょう。ですが時にはUBWの方へと弾かれていくかもしれません。そして稀なことですが、HFに落ちていくこともあるのです。

もし、無限に試行することが出来るのであれば、全ての出来事もまた無限に起こりえるという意味で、この3つのルートは平等でしょう。もちろん、それはバットエンドにおいても同じことです。*1むしろ、運命の夜に翻弄される士郎の儚さもまた、この物語の主題の一つと考えるべきではないでしょうか。

そして、この解釈は士郎の歪みについて正反対の答えを導き出します。ここに見出されるのは、悪戦苦闘の果てに自らの歪みを直すにいたる士郎というよりは、HFという希少な確率においてすら、一度死ななければ歪みを直せない士郎であり、それは逆説的に衛宮士郎の歪みがどれほど直りにくいものであるかを表現していると考えられます

  そして、これが士郎が今まで抱いてきた理想を捨て正義の味方を辞めるシーン。

*桜を殺さないと決めた所が本当に正義の味方を辞めるシーンと言われていますが、個人的にこのシーンが大好物なのでチョイス

 冷え切った体を抱きとめる。

 ……回した腕は、ひどく頼りなかった。

 強く抱きしめることもできず、桜を抱き寄せる事もできない。

 ……俺には桜を救うことは出来ない。

 ただこうして、傍にいてほしくて、傍にいてやる事しかできない。

 「先輩、わたし​────」

 「もう泣くな。桜が悪いヤツだってコトは、よくわかったから」

 「…………………」

 息を呑む音。罪悪と後悔が混ざった桜の戸惑い。

 それを否定するように、精一杯の気持ちを告げる。

 「​─────だから、俺が守る。どんな事になっても、桜自身が桜を殺そうとしても​────俺が、桜を守るよ」

 「せん、ぱい」

 「約束する。俺は、桜だけの正義の味方になる」

f:id:asacafe22:20170716005112j:image

ここで流れるSorrowはお気に入りのBGM。

 

言峰綺礼について】

  HFを語る上で外せない男の1人。fate、uvwでは士郎にとって綺礼は形容し難い悪、そのものだった。

 

 士郎の歪んだ正義を初対面で見抜く洞察力と元代行者としての戦闘能力。第五次聖杯戦争において最強のマスターと言っても過言ではないスペックを持っている。

 

 士郎の歪んだ正義と対をなす形で綺礼の歪んだ悪が存在している。生まれた時から 美醜の概念が人と真逆だった。美しいものを当たり前に美しいと思うことができなかった。どれだけ自分が道徳や規律を守ろうとも自分自身の価値観を変えることができない。若かりし頃はその自己矛盾に悩まされたという記述もあった。

 

 第四次聖杯戦争で自分自身の本質に気づき受け入れた後も、自らの悪性に従った“娯楽”を楽しみつつ、やはり心のどこかで他人との同調を求めていた。人と真逆の価値観を持った綺礼にとって正しい心とは他人との同調だったのだ。

 

 士郎が正義のために悪を求めるのに対して悪というものを体現した存在でありながら心の底で求めるものは“正しい心”だという歪んだ悪。ここに言峰綺礼というキャラクターの秀逸さがある。

 

 

 

【歪みとは】

 歪んだ中始まっていたのが第五次聖杯戦争。物語におけるルールブレイカーが多すぎるのだ。キャスターやエミヤなどの正規の英霊でない英霊の召喚。英霊による英霊の召喚。果てには真アサシンという歪なものまで形作った。

 

 しかし、この歪みこそがfateという物語を作ったのではないだろうか。真の善、真の悪である人間は存在しないものであると。

 

 昨今物語において歪みの無いキャラクターは多くいるのではないだろうか?そのキャラクターの性質を一言で言い表せるような。そのようなキャラクターは理解しやすいし感情移入も容易だ。

 

 しかし、fateでは綺礼の歪んだ悪、士郎の歪んだ正義。理解し難い歪んだキャラクターが出てくるのだ。しかし、それ故に生々しい。どのヒロインよりも人間離れした身体を持った桜のルートが最も人間臭く生々しいというのはそこに起因する。

 

 【間桐桜について】

 ヒロイン、間桐桜について書かせてもらう。HFというルートは士郎、綺礼、桜の物語だ。3者のキャラクター設定は綿密であり素晴らしい。 

 

 幼くして間桐の家に養子に出され教育という名を借りた虐待を受け続けてきた。第四次聖杯戦争の聖杯の欠片を埋め込まれ身体を人ならざるものに変え、黒い聖杯としての機能を備えた。

 

 HF以外のルートでの桜は“日常”の象徴。士郎には自分なんかよりも相応しい相手がいる、とセイバーや凛との関係を喜んでいる節も見受けられた。 

 

 桜は根底に間桐の魔術への嫌悪、翻って自らへの存在に対して蛇蝎の如き感情を抱いていた。だから自分に自信も持てない、特定の人以外に心を開くことが出来ない。自分を家族だと言ってくれた士郎の家で家事をしている瞬間だけ全てを忘れ笑うことが出来た。それが桜にとって唯一の幸福だった。

 

 間桐桜というキャラクターを鑑みるにあたって対比されるのは姉である遠坂凛。桜から見た凛は自分の理想そのもの。恵まれた環境、恵まれた容姿、その性格全てを羨んでいた。自分が手に入れられなかった全てを持つ姉を。

 

 反対に凛は桜のことを妹としてしか見ていない。桜の境遇を理解した上で関わりはない、同情も憐憫もない。が、ただ1人の“妹”であるという1点において桜を何よりも優先させることができる。ここに凛の人間の器の厖大さが伺える。

 

 二人の性質の差を表すシーンとして走高跳びのシーンが有名である。同じ光景を見ていた二人。桜はその姿を挫ける瞬間が見たくて見ていた。しかし、見ているうちに桜は気づく。この人はたまたま自分のできないことにぶつかって意地を張っているだけなんだと。桜にはそれが羨ましく頼もしかった。

・・・夕焼けの校庭。 いつまでも走っていた見知らぬ誰か。
諦めてしまえ、と囁く声を、頑張れ、に変えてくれた遠い少年。
その時から願ってしまった。
―――あの人といっしょにいたい。
―――あの人に守ってほしい。

 

 凛には自分にとって不可能なことをするという選択肢がない。過程を可能なように変換し結果を出す。それが、遠坂のやり方だった。だからこそ無理だと分かっていることに挑戦してあっさりと諦める、というのに苛立ちを覚えた。

わたしは羨ましかったんじゃなくて、負けたって思った。……そいつが少しでも跳べるんだって希望を持って走っていたなら良かった。そんなことなら素通りして、さっさと家に帰っていた。

  同じ光景を見て一方は眩しく感じ、一方は競争意識を感じてる。根本的な性質の差が出てしまうのだろう。桜にとっては最も大切な思い出。士郎と切嗣の約束のシーンのような。

 

 桜は我慢することに関しては常人にはない強さを持つ。自我を抑制し過ぎるためその抑圧された強い感情と聖杯の中身が混ざり影を産んだ。

 

 

  【罪と罰

 士郎は大きな罪を背負っている。理想を裏切ったことだ。その理想は切嗣が屠った何百という命、火災で死んだ数多の命。そういう十字架を背負っている。

そうだ。罪の所在も罰の重さも、俺には判らない。
けど守る。これから桜に問われる全てのコトから桜を守るよ。
たとえそれが偽善でも、好きな相手を守り通す事を、ずっと理想に生きてきたんだから―――

 呪いに近いこの理想を裏切った対価としてセイバーを失う。守ってくれると言ってくれたセイバー、共に戦うことを誓ったセイバー。そんな彼女を自らの手で殺さなければならない。

 

 桜もまた影の仕業とはいえ多くの人の命を奪った。罪を犯した人間は罰によってしか救済されない。桜トゥルーには罰が存在しない。(描写されていない)ライダー、士郎、凛と仲良く暮らしている。

 

 これは桜への救いはあるのだろうか?救われないことが罪であるなどという千日手のような考えは捨てると、これは腑に落ちない。トゥルーがプレイヤーのためのご都合ハッピーエンドと言われてしまうのも仕方がないのかもしれない。

 

 

      ノーマルエンドで士郎を失った桜は孤独である。このエンディングでは聖杯を破壊しているためライダーも現界させられない。凛とは距離を置いている。十一年間桜を縛り付けていたモノから解放されて代わりに唯一の道しるべを失った。士郎に罪を償えと言われたことを思い出す。しかし桜は士郎無しには何もできなかった。なんでもできる凜と比べ落ち込む。

 

 ある日桜は思いだす。士郎との叶うはずのない約束を。

「このゴタゴタがすべて終わったら花見に行こう」

 そして桜は約束の日のために、年に一つずつ贖いの花を育てることにする。

 

 春になった。

 

 そしてまた春になった。

 

 約束の日を迎える為に、私の罪が赦されるまで、ここで春を待ちましょう。